マチエールが語りかける:絵具の物質感が誘う感覚と感情
マチエールに寄り添う鑑賞の可能性
美術作品の鑑賞において、私たちはしばしば作品の主題や構図、色彩といった目に見える情報から多くのことを読み取ります。しかし、絵画の表面に注意を向けることで、また異なる感覚や感情が引き出されることがあります。ここでは、絵具の物質的な痕跡である「マチエール」に焦点を当て、それがどのように私たちの内面に響きうるかを探ります。
マチエールとは、絵画の表面における絵具の質感や盛り上がり、筆致の跡などを指す言葉です。単なる物理的な特性として捉えられがちですが、マチエールは画家が絵具という物質と格闘し、画面に定着させた時間やエネルギーの結晶とも言えます。この物質的な側面を意識することで、作品はより生々しく、触覚的な存在感を伴って私たちに語りかけてくるでしょう。
マチエールが呼び起こす感覚と感情
作品のマチエールは、その表現や技法によって多様な感覚や感情を誘発します。いくつかの例を挙げてみましょう。
- 厚く盛り上がったマチエール: 絵具が画面に厚く塗られ、筆致が強く残されている場合、それはしばしば力強さやエネルギー、情熱といった感情を呼び起こします。絵具の堆積は、制作時の勢いや葛藤、あるいは描こうとした対象の持つ重厚感や存在感を示唆しているかもしれません。光が当たると生まれる強い陰影は、画面にドラマチックな表情を与え、視覚的な迫力を増幅させます。
- 薄く滑らかなマチエール: 絵具が薄く、均一に塗られ、筆致がほとんど見えないような画面は、静けさ、繊細さ、透明感、あるいは距離感といった感覚に繋がることがあります。表面の滑らかさは、対象の理想化や普遍性を示唆したり、鑑賞者を画面の奥深くへと静かに誘い込んだりする効果を持つ場合があります。
- 筆致の方向性やランダム性: 絵具の筆致が特定の方向に流れているか、あるいは不規則に入り組んでいるかによっても、感じる印象は変わります。流れのある筆致は動きやリズムを生み出し、画面に躍動感や広がりを与えるかもしれません。対照的に、ランダムな筆致は混乱や内面のざわめき、あるいは物質そのものへの探求心を感じさせる可能性があります。
マチエールの観察は、色彩や形といった要素と同様に、作品から様々な感覚や感情を引き出す手がかりとなります。絵具の盛り上がりや筆致の跡をたどることは、単に技術的な側面を理解するだけでなく、画面に込められた身体的なエネルギーや、絵具という物質を通して表現された画家の意図や感情の痕跡を感じ取ることにつながります。
鑑賞を深めるための視点と問いかけ
作品のマチエールに意識的に目を向け、「感じる」鑑賞を深めるために、以下の視点や問いかけを試してみてはいかがでしょうか。
- 作品の表面に光がどのように当たっているかを見てみましょう。光と影がマチエールによってどのように形作られ、画面全体の雰囲気にどのような影響を与えているでしょうか。そこからどのような質感や温度が想像できますか。
- 絵具の盛り上がりや凹凸を、指先で「触れる」かのような想像をしてみてください。ザラザラしているか、滑らかか、粘りがあるか。その想像される触感は、描かれた対象や画面の雰囲気に合っているでしょうか。
- 筆致の速さや強さを想像してみましょう。速い筆致からはどのような勢いや感情を感じますか。遅く丁寧な筆致からはどのような印象を受けますか。画家がこの画面を描いていた時の、身体の動きや呼吸を想像できるでしょうか。
- 画面全体でマチエールは均一でしょうか、それとも部分によって大きく異なりますか。その違いは、描かれた世界や物語、あるいは画家の内面におけるどのような変化や対比を示唆しているように感じられますか。
これらの問いかけは、作品の表面を単なる視覚情報として捉えるだけでなく、物質的な存在感や制作プロセスの一部として感じ取ることを促します。
マチエールから広がる鑑賞世界
マチエールに注目した鑑賞は、作品を見るという行為に新たな奥行きをもたらします。絵具の物質感や筆致の跡は、画家と支持体、そして絵具との間の対話の痕跡であり、作品が単なるイメージではなく、確かにこの世界に存在する「もの」であることを私たちに思い出させてくれます。
知識としてマチエールを知っていることに加え、実際に作品の前に立ってその表面に意識を向け、「感じる」ことを試みることで、作品はより個人的で、豊かな体験として私たちの中に響くようになるでしょう。ぜひ次の鑑賞では、作品のマチエールにそっと寄り添い、そこから引き出される感覚や感情に耳を澄ませてみてください。それは、作品とあなた自身との新たな対話の始まりとなるかもしれません。