抽象絵画が語りかける感覚世界:形と色が呼び起こす心象風景
抽象絵画に感覚で触れる
美術作品の鑑賞は、時にその背景にある歴史や理論、作家の意図といった知識に焦点が当たりがちです。しかし、作品が持つ力は、そうした知的な理解を超えた感覚や感情にも深く訴えかけます。特に抽象絵画においては、具体的なモチーフがないからこそ、色彩や形、マチエールといった要素そのものが鑑賞者の感覚や感情に直接働きかけます。
この記事では、抽象絵画を「知識として理解する」ことから一歩進み、「感覚や感情を通して味わう」ための視点を探ります。作品の前に立ち、自身の内側で何が起こるかに意識を向けることで、抽象絵画との新たな対話が生まれることを目指します。
作品要素が呼び起こす感覚と感情
抽象絵画は、対象を写実的に描くのではなく、色や形、線といった視覚要素そのものの構成によって表現されます。これらの要素は、私たちの感覚や感情に様々な形で作用します。
- 色彩: 色は私たちの感情や生理的な反応に強く影響を与えます。鮮やかな赤は情熱や活力を、深い青は落ち着きや静寂を、黄色は光や喜びを感じさせるかもしれません。また、色の組み合わせや対比は、画面に特定の雰囲気や温度感をもたらします。例えば、暖色系の集合は暖かさや高揚感を、寒色系の組み合わせは涼しさや冷静さを引き出す可能性があります。抽象絵画では、こうした色の持つ力が主題そのものとなり得ます。
- 形と線: 具象的な意味を持たない形や線は、それ自体の動きや構造によって感覚に訴えかけます。柔らかな曲線は優しさや流動性を、鋭角的な形は緊張感やダイナミズムを、太く力強い線は勢いを、細く繊細な線は儚さや静けさを感じさせるかもしれません。形や線の配置、密度は、画面にリズムやエネルギー、あるいは静的なバランスをもたらします。
- マチエール(絵肌)と筆致: 絵具の厚み、表面の質感、筆の運びの痕跡といったマチエールは、作品に視覚的だけでなく、触覚的な想像力を働かせます。厚く塗り重ねられた絵具からは重厚さや物質感が、滑らかな表面からは洗練された印象が、荒々しい筆致からは力強い感情の動きが伝わってくることがあります。作品の表面に現れた物質的な情報から、画家が絵具と格闘した時の身体性や時間の経過を感じ取ることもできるでしょう。
- 構図と空間: 抽象絵画における構図は、形や色の配置による画面全体の構成です。要素がどのように配置され、互いにどのような関係にあるかによって、安定感や不安定さ、広がりや閉塞感、奥行きや平面性といった空間感覚が生じます。この空間の感覚は、鑑賞者に心地よさや違和感、解放感など、様々な感情を喚起し得ます。
鑑賞を深めるための視点
抽象絵画を「感じる」ことに意識を向けるには、作品の前に立ち、まず自身の感覚に問いかけてみることが有効です。
- まず、画面全体を漠然と眺めてみてください。最初に目に飛び込んでくるのはどのような色や形でしょうか。
- その色合いを見ていると、どのような温度や感触が頭に浮かびますか?冷たい、暖かい、ザラザラしている、滑らか、といった感覚でしょうか。
- 画面の中の線の動きや形のリズムを感じてみてください。もし音に例えるなら、どのような響きでしょうか。静かなメロディー、激しいノイズ、規則的なビート?
- 画面全体の雰囲気から、どのような感情が引き出されますか?心が落ち着く、ワクワクする、少し不安になる、力が湧いてくる、といった感覚でしょうか。
- 特定の場所や色に特に視線が引きつけられる場合、それはなぜでしょうか。その部分から何か特別な感覚を受け取りますか?
これらの問いかけに対する答えは、決して正解があるものではありません。大切なのは、作品があなた自身の感覚や感情にどのような働きかけをしているか、その気づき自体です。
感覚と感情で味わう鑑賞の豊かさ
抽象絵画を、単なる難解な図形としてではなく、色彩や形、質感といった要素から直接的に感覚や感情を受け取る媒体として捉え直すことは、鑑賞体験をより豊かなものにします。美術史的な知識は作品世界を広げる深みとなりますが、そこに自身の感覚や感情による応答を加えることで、作品はより個人的で生き生きとした存在として心に響いてきます。
作品の前で少し立ち止まり、頭で考えるより先に、まず目で見て、皮膚で感じるように、自身の感覚に静かに耳を澄ませてみてください。抽象絵画は、あなたの内側で起こる様々な反応を通して、あなただけの特別な言葉で語りかけてくれるはずです。この「感じる」鑑賞法が、今後の美術鑑賞の扉をさらに開く一助となれば幸いです。